展示品の紹介

足踏みオルガン

足踏みオルガン

ふりがな:あしぶみおるがん

旧鳩岡小学校(赤磐市是里)で使われた足踏みオルガンです。リードオルガンとも呼ばれ、足元のペダルを踏んでオルガン内部の空気を押し出し、ふたたび空気を取り込むことで金属製のリードを震わせて音を奏でます。明治5(1872)年に発布された「学制」により唱歌(現在の科目でいう音楽)が授業に取り入れられ、全国の小学校に普及しました。

鳩岡小学校の足踏みオルガンは明治36(1903)年8月に地元青年団員15名がお金を出し合って購入し寄附しました。けん盤の上側にロゴマークと「Manufactured by Ikeuchi Organ」が書かれており、大阪でオルガン製造を行っていた池内甚三郎が手がけた池内オルガンであることがわかります。

干瓢剥き機

干瓢剥き機

ふりがな:かんぴょうむきき

干瓢とはユウガオの実を細長く剥いたものを乾燥させてつくる保存食品です。輪切りにしたユウガオの実を爪の付いた丸い板で挟んで剥き機に刺し、手回しハンドルを回しながら付属の手かんなで薄いヒモ状に剥きます。夜のうちに剥いた干瓢を、朝早く物干し竿に吊るして天日干しにします。吉井川に面する吉井地域と熊山地域では、物干し竿を使わず吉井川の河原に干瓢を敷いて乾燥させていました。

写真の干瓢剥き機は昭和30年頃まで使われた手回し式のものです。昭和30年頃になると動力式の干瓢剥き機の普及や店などで購入できるようになり、手回し式の剥き機は使われなくなっていきました。

酒樽

酒樽

ふりがな:さかだる

酒樽はその名の通りお酒を入れる木製の容器のことです。入れた酒を保存し運ぶために鏡板と呼ばれるフタを閉めて外れないようにします。中身は栓を外して注いで出すか、鏡板を割って取り出します。酒樽は祝儀や祭礼といった祝いの場でも用いられ、古くは白木の樽が一般的でしたが次第に漆塗の物に変化していきました。

酒樽は形によって名前が付けられており、写真の樽は平べったい形をしているので扁樽(ひらだる)とも呼ばれます。両側に持ち手となる2本の長い柄が付けられています。鏡板には「諸白」(酒造りに使う麹米と蒸米のどちらも精白米を使用して造られた上等な酒の事)と書かれています。簡素な白木の酒樽ですが、祝いの場で使用されていたようです。

白黒テレビ

白黒テレビ

ふりがな:しろくろてれび

白黒テレビはテレビ放送が本格的に始まる前年の1952年から、カラーテレビが普及する1970年代まで使用されました。販売当初は高価だったため街頭に設置したものや購入した家に集まって見るのが一般的でしたが、1959年の皇太子殿下ご成婚パレードの放送を機に一般家庭へと普及していきました。

このテレビは1959年頃に周匝小学校で初めて購入されたもので、ナショナル(現在のパナソニック)製の白黒真空管テレビ(型番F17-K9)です。テレビ画面の下にはチャンネルや音量調節のダイヤルが、画面の右側には大型のスピーカーが付いています。正面にはブラウン管を保護するための観音開きの扉があり、扉の取手に「NATIONAL」の文字が刻まれています。本来はテレビの下に木製の脚が四脚付いていました。

扉付きの白黒テレビは「教育用テレビ」と呼ばれ、主に学校での視聴覚教育用として発売されました。販売当時の価格は11万5千円(当時のサラリーマン月給の約6倍)とたいへん高価な物でした。そのため、この白黒テレビは多くの人の寄付によって購入され、教育番組の鑑賞などに活用されました。

振鈴

振鈴

ふりがな:しんれい

振鈴は振って音を鳴らし、時刻を知らせる道具です。明治19(1886)年に定められた「小学校令」により、生徒は決まった時間に学校で授業を受けるようになりました。振鈴はその後、時間になると自動で音を鳴らす電鈴(ベル)が登場する大正時代まで使用されました。

写真の振鈴は真鍮製で、旧鳩岡小学校(赤磐市是里、昭和43年に周匝小学校に編入し閉校)で使用されていました。本来はハンドベルのように木製の持ち手が付いていました。時間になると先生や用務員がこの振鈴を鳴らして、現在のチャイムの役割を果たしていました。

炭火アイロン

炭火アイロン

ふりがな:すみびあいろん

炭火アイロンは炭火を中に入れて鉄で出来た本体の熱と重みで服のシワを伸ばす道具です。炭火を入れるために上部が開閉できるようになっています。持ち手は熱くならないように木で作られ、その前方には炭火が消えないように空気を取り入れるための煙突が付いています。

この炭火アイロンは明治時代に使われた物です。炭火アイロンは明治時代に洋服とともに欧米から伝わり、電気アイロンが家庭に広まる昭和のはじめ頃まで使われました。

石盤

石盤

ふりがな:せきばん

石盤は小学生が文字の練習や書き取りに使用した筆記用具です。素材は板状の粘板岩で、ロウ石を鉛筆状に加工した石筆で文字や絵を書きます。明治5年(1872)に出された「小学教則」によって書き取りに石盤を使用することが定められ、ノートと鉛筆が普及する大正時代まで使用されました。

写真は縦25センチメートル、横15センチメートルの石盤です。表面には何度も使用されて付いた傷やロウ石の跡が残されています。また、縁には縦にスライドさせたような傷が見られることから、本来は割れないように木枠にはめられていたと考えられます。

35mmカーボン式映写機

35mmカーボン式映写機

ふりがな:35みりかーぼんしきえいしゃき

35mmフィルムを映写する据え置き型のカーボン式映写機です。映写機はフィルムを光に当て、その透過光をレンズを通してスクリーンに映します。カーボン式映写機の光源には「カーボンアークランプ」が使われています。鉛筆のような形をした約30cmのカーボン(炭素)棒を使って放電・発火させて生じた強い光でフィルムを照らします。カーボンは高温で燃えるため、熱を逃がす煙突が付いていました。機体には製品名「ISONO MOGUL」と会社名「ISONO SEIKI K.K」が書かれたプレートが付けられています。

この映写機は昭和30年頃に赤磐市周匝にあった吉井劇場(現周匝公民館)で映画を上映するのに使われたものです。映画フィルムを映画会社から借りて上映していました。吉井劇場は映画や芝居を楽しむ地域の娯楽の場として親しまれましたが、テレビの普及により閉鎖されました。

溜桶(砂糖樽)

溜桶

ふりがな:ためおけ(さとうだる)

高さ53cm、径55cmの大きさの桶で、しぼったサトウキビの汁を溜めるのに使われました。

赤磐市内では明治時代から昭和40年ごろまで畑でサトウキビを栽培して、料理に使うための砂糖を作っていました。そのため、地区ごとにサトウキビの汁を炊き上げる共同の作業場がありました。各家から持ち寄ったサトウキビをしぼり、大釜で煮詰めて砂糖をつくりました。

この桶は赤磐市町苅田で使用されていたものです。町苅田では砂糖組合を立ち上げ砂糖をつくる費用を集め、そのお金で道具や燃料の薪を購入していました。桶の側面には「昭和32年12月」「No10」の文字が書かれており、砂糖組合で購入したことがわかります。

手回し蓄音機

手回し蓄音機

ふりがな:てまわしちくおんき

手回し蓄音機は円盤型のレコードを再生する機械です。レコードを回す回転台の動力はゼンマイで、レコードの溝を通る針から伝わった振動をサウンドボックスで音に変換し、その音をホーンで大きく響かせて聞く仕組みになっています。

手回し蓄音機は明治10年(1877)にアメリカのエジソンによって発明されました。日本にも輸入されましたがたいへん高価な物でした。明治40年(1907)に国産の手回し蓄音機が発売され、大正時代から昭和初め頃にかけて一般家庭へと普及していきました。

写真は昭和8年(1933)に発売された日本コロムビア社製ヴィヴァ・トナール・グラフォノーラ451型手回し蓄音機です。高さ34cm、幅42cm、奥行き40cmの卓上型で、箱の内部にホーンが内蔵されており、側面(写真の手前側)に張られた布部分から音が聞こえるようになっています。

卓上型の手回し蓄音機は広く普及したもので、写真の蓄音機も吉井地区の一般家庭で使用されていた物です。

唐箕

唐箕

ふりがな:とうみ

唐箕は収穫した米や麦などの籾(モミ)からわらクズをとりのぞく道具です。江戸時代に中国から日本に伝わったとされています。上部の入口(ジョウゴ)から籾を少しずつ注ぎながら側面のハンドルを回して風を起こし、横の口から籾より軽いわらクズを吹き飛ばします。籾は風の力で重さ別に選別されて下の口から出てきます。籾を注ぐ人とハンドルを回す人の二人で作業を行う道具で、おもに夫婦の共同作業でした。

写真の唐箕は、大正2年8月に赤磐市周匝の住民が購入したことが墨で書かれています。「定価六円八十銭」とも書かれており、当時の価格を知ることができます。

泥天神

泥天神

ふりがな:どろてんじん

和紙を練りこんだ粘土で作られた菅原道真(すがわらのみちざね)の人形で、男の子の初節句に贈られました。

この人形は土を型取りして乾燥させ、窯で焼かずに着色して作られています。というのも、男の子が元服すると川に流したり畑に埋めたりする風習があったため、人形が自然に土にかえりやすいように作られています。

泥天神を贈る風習は県内では主に美作地域(津山市など)で見られるものですが、美作地域に近い吉井地域でも贈られたお宅があったようです。

二宮金次郎像

二宮金次郎像

ふりがな:にのみやきんじろうぞう

旧佐伯北小学校(現赤磐市光木)にあった備前焼の二宮金次郎像です。昭和19年に校庭で建立の除幕式が行われ、昭和53年に閉校した後、現在の場所に移築されました。

二宮金次郎は江戸時代に実在した人物で「勤倹力行」(よく働き努力すること)のお手本として明治時代から昭和時代にかけて全国の小学校に立てられました。

この像は資料館入口の西側にあります。また、第1展示室には赤磐市内にある二宮金次郎像の写真パネルが展示されています。

箱膳

箱膳

ふりがな:はこぜん

箱膳は食事のときに食器を置く蓋付きのお膳です。ちゃぶ台が普及する昭和のはじめ頃まではひとり一人専用の箱膳を持っていました。普段はその中に飯碗・汁碗・小皿・箸・湯のみを入れて蓋をして保管していました。食事のときには蓋を裏返して食器を置き、食卓として使用しました。写真は蓋を裏返した食器を置くときの状態です。

この箱膳は赤磐市内の民家で使用されていた、引出付きの箱膳です。引出しには食器の他に自分専用の漬物を入れていました。

触れ太鼓

触れ太鼓

ふりがな:ふれだいこ

触れ太鼓とは催し物が始まる前に鳴らし、客に始まりを宣伝する太鼓の事です。現在でも歌舞伎の上演前や相撲の巡業の際に鳴らされています。

写真の太鼓は昭和30年代に周匝地区にあった周匝劇場で使用された触れ太鼓です。太鼓の種類は締め太鼓で、牛皮が張られた皮面をヒノキで作られた二本の棒(バチ)で叩きます。鳴らすときは専用の台座に乗せて叩いたと考えられます。周匝劇場では映画や芝居を上演しており、本来は客寄せのために使われた太鼓ですが、芝居の道具としても使用されました。

綿繰り機

綿繰り機

ふりがな:わたくりき

摘み取った綿から種を取りだす道具です。ローラー部分に摘み取った綿をはさみ、横のハンドルをまわすとローラーが綿を奥へ送り出し、種が手前に落ちる仕組みです。写真の綿繰り機は昭和の初め頃に使われた道具です。

山陽地域や赤坂地域では綿の栽培が盛んに行われていました。特に赤坂地域の綿で作られた白木綿は「赤坂木綿」と呼ばれ、明治時代の初め頃から大正時代の初め頃にかけて農家の女性の仕事として盛んに作られました。大正時代になると機械化により安価な木綿が流通したため販売用の赤坂木綿の生産は衰退しましたが、昭和の初め頃まで家庭用の綿の栽培は続きました。

腕用ポンプ(消防ポンプ)

腕用ポンプ

ふりがな:わんようぽんぷ(しょうぼうぽんぷ)

腕用ポンプとは火事の時に放水する消火道具です。車輪の付いた木製の台車の上に水を汲み上げて放水するポンプが載せられています。消火活動では台車からポンプを降ろし、台の上にある吸管ホースと放水するホースをポンプに取り付けます。ポンプの両側に伸びるハンドル部分を腕と呼びます。この腕に漕ぎ棒と呼ばれる丸太の棒を取り付けて上下に押して圧力をかけて放水します。一方の漕ぎ棒には4人ずつ計8人で下に押して使用しました。

この消防ポンプは昭和6年4月に吉井町布都美地区広戸(現在吉井地区広戸)が購入した物です。昭和20年頃からはガソリンポンプへと替わり、昭和30年代以降には現在の消防ポンプ車へと替わりました。

更新日:2020年10月06日