備前国分寺跡(びぜんこくぶんじあと)

国分寺が建立された時代

備前国周辺推定図

備前国周辺推定図

国分寺は今から1300年ほど前の天平13(741)年、聖武天皇の命令により、全国60余国ごとに建てられた寺院です。

この頃、朝廷では貴族の対立が激しくなっていました。また一方、民衆は災害や疫病の流行に苦しい思いをしていました。そのため、国分寺を建立することで、このような危機を仏教の力で鎮め護ろうとしたのです。

備前国では現在の赤磐市馬屋に備前国分寺(びぜんこくぶんじ)が建立されることになりました。国分寺の南側には東西に延びる古代山陽道を挟んで備前国分尼寺も建立されたと考えられています。

備前国分寺跡の伽藍配置

備前国分寺跡伽藍配置

備前国分寺跡伽藍配置

備前国分寺の伽藍配置(がらんはいち)は国分寺式伽藍配置と呼ばれます。

 東西約175メートル、南北約190メートルあまりの築地塀(ついじべい)に囲まれた境内(けいだい)には、南門・中門・金堂・講堂・僧房という主要な建物が南北に一直線に並び、境内の南東に塔が配置されていました。

 中門と講堂は金堂を囲って回廊でつながっていました。

南門(みなみもん)

寺の南側に位置する正門

中門(ちゅうもん)

南門の内側にある正門

金堂(こんどう)

仏像を安置する建物

講堂(こうどう)

講義を聴いて議論する建物

僧房(そうぼう)

僧侶の生活する建物

塔(とう)

経典を納める建物(国分寺以外のお寺では通常釈迦の骨(仏舎利)を納めた)

回廊(かいろう)

中門と講堂をつなぐ廊下

築地(ついじ)

境内の境界を示す塀

備前国分寺の遷り変わり

741(天平13)年の命令を受けて建立された備前国分寺は、平安時代中頃から後半にかけての間に改修が行われたようです。

 さらに今から900年ほど昔の平安時代末には、講堂と北側の回廊が焼失してしまったようです。この頃には、塔と金堂も使われなくなったと思われます。

 鎌倉時代以降に講堂は建て直されますが、建立当初の講堂よりも規模の小さな建物に縮小されたようです。

 規模を小さくしながら続いていった備前国分寺は今から約400~500年ほど前の16世紀後半に使われなくなったものと思われます。焼き討ちにあったという伝承も残っていますが、本当のところは分かっていません。 国分寺がなくなった後に建立された石造七重層塔と祠が寺の面影を偲ばせるだけになってしまいました。  

備前国分寺跡 想像図

備前国分寺跡 想像図

よみがえる備前国分寺

1974(昭和49)年、岡山県による発掘によって、国分寺跡の存在が確認されました。このとき、主要な堂塔の礎石や当時の瓦などが検出されました。

さらに、2003(平成15)年度から赤磐市による発掘調査が行われています。  

軒丸瓦と軒平瓦

軒丸瓦(上)と軒平瓦(下)

 この調査では、数多くの遺物が見つかっています。

 中でも一番多く出土するのが瓦です。

 写真の瓦は創建された奈良時代の軒丸瓦(のきまるがわら)と軒平瓦(のきひらがわら)です。

 屋根の軒先に使われる瓦で、作られた時代や地域によって模様が違い、備前国分寺で数多く使われていた形の軒丸瓦には8枚の花びらの模様が、軒平瓦には唐草模様が描かれています。  

僧房で出土した銅製の印

僧房出土の銅製の印

大量の瓦や僧侶の生活の様子を示す土器に交ざって珍しい遺物も見つかっています。

2番目の写真は文字の一部が欠けていますが、「常」の字の銅製の印です。

印面は一辺3.1センチメートルの正方形で、ひもを通す穴の開いた紐(ちゅう)は花びらの形を模しています。岡山県下では6例目となる、貴重な遺物です。

文字が書かれた瓦

文字が書かれた瓦

また、文字の刻まれた瓦も出土しています。文字を書けるのが一部の人だけであった奈良時代の貴重な文字資料です。

右の行から順に

...男奴床□...

...之田(由?)奈比...

...□召志良...

と書かれていますが、前後が欠けているため内容はわかっていません。

備前国分寺の規模や遷り変わりも、発掘調査によって明らかになったことです。

備前国分寺跡の全貌があらわになる日も近いかも知れません。 位置については文化財マップの下記のページをご覧ください。

両宮山古墳・備前国分寺跡と周辺遺跡をめぐるコースは下記のページをご参照ください。 

更新日:2018年03月01日